ガチャのサッカーストーリー【中学生編】

ガチャのサッカーストーリー第2回。大変お待たせしました!中学生編です。第1回【幼稚園〜小学生編】はこちら↓↓

登場人物

○チームメート

【S君】 年長からの仲間 U-14ナショナルトレセン 名門高校の主将で全国選手権にも出場

【R君】 トレセンでのチームメート 現在はプロサッカー選手

○コーチ

【Sコーチ】 当時20代後半くらいの若いコーチ とにかくドリブルを叩き込まれた

【Kコーチ】 中2から担当してくれたコーチ

★何も考えずに進んだジュニアユース

私は迷わず、年長から入っていたチームのジュニアユースにそのまま入りました。ジュニア(小学校)→ジュニアユース(中学校)に移るに伴い、約20人いたメンバーの半分ほどが抜けました。Jの下部組織に合格した選手、他のクラブチームに進んだ選手、中学校の部活を選んだ選手もいました。ただ、他のチームから新たな仲間も加わり、合計約30人ほどの学年になりました。

今考えると、自分もJジュニアユースのセレクションを受けれてみれば良かったと思います。全て不合格に終わる可能性ももちろんあります。ただ、自分で勝手にその可能性を排除してしまいました。

この選択に大きな影響を与えたのは小学校高学年から指導してくれたHコーチです。Hコーチは、なぜかJの下部組織が嫌いで「あんなところに行ったら選手が潰れる」と言い続けていました。私にも「お前はこのままジュニアユースに上がれ。Jのセレクションは受けるな」と強く言ってきました。

私はその言葉の通り、深く考えずにジュニアユースに進むことになります。

まぁ、たらればの話をしてもしょうがないのでこの辺で。次に進みます。

★ドリブルしかさせてもらえなかった中1時代

中学1年生の1年間、私たちの学年を担当してくれたのはSコーチ。当時20代後半くらいの若い男性でした。練習は全てドリブル練習です。

トレーニングはもちろん、練習試合、公式戦でも私たちに「パス禁止」を強制しました。どのポジションの選手もそうです。なので、ゴールキックでは近いCBの選手がボールを受けて1人でドリブルで運んでいく形になります。(流石にGKはパスをしていました)

そんなサッカーで、試合に勝てるはずがない。能力のある選手は多かったので、公式戦でもある程度のところまでは進めましたが、大事な試合ではことごとく負けました。

中盤のパサータイプだった私はこの指導に猛反発。中学生という反抗期の時期だったこともあり、指示を無視してパスしまくっていました。何度も衝突し、怒られました。それでもSコーチはその指導を曲げず、私は嫌々ながらもドリブル練習、試合中のパス禁止にある程度真面目に従うようになりました。

すると、1年生が終わる頃から徐々に変化が生まれます。単純に、サッカーがむちゃくちゃ上手くなりました。これまでボランチのパサー・バランサータイプだった私ですが、自分で運んでゴールに向かうという選択肢ができました。

プレーの幅が広がり、自信もつきました。この頃から急激に身長が伸び始めたこともあり、今考えると能力が一気に開花した感じです。

中1の頃から入っていた京都府トレセンでも完全に主力になり、「背の高いボールを運べる万能型ボランチ」のようなタイプになります。すごく良く言うとユナイテッドのポグバみたいな感じですかね。

そのコーチのやっていた練習で覚えているものを箇条書きで何個か書き出してみます。

・コーン、マーカーを使った細かいドリブル(特に足の裏を使うことが多かった)
・トップスピードでワンステップにワンタッチするドリブル(これが特に大事だった)
・狭いスペースでの1対1

などなど、忘れている練習もありますが、だいたいこんな感じでした。

選手によって合う合わないはあるでしょうが、当時の私にとってはとても有意義な練習、考え方でした。そして何より、Sコーチには情熱がありました。いつでも真剣に、そして私たちに寄り添って指導してくれました。

そんな環境で過ごした中学1年生。選手として大きく成長することができました。中学2年生、14歳になります。

★最悪のチーム状況だった中2時代

まずチームの話をします。私たちの学年の担当がSコーチ(ドリブルの人)からKコーチに変更。あまり言うと申し訳ないのですが、このKコーチ、本当にやる気がありませんでした。まず平日の練習にほとんど来ない。来てもラスト30分とかでした。

私たちの学年はスタッフ無しでひたすらミニゲームだけして終了。平日はほとんどそんな感じです。中2くらいからは徐々にグレ始めるメンバーも出てくる。ミニゲームをしてもゴールの前で喋っているだけのチームもありました。本当に意味のない時間です。

喧嘩や暴力、イジメもありました。一気にサッカーが楽しくなくなりました。

ただ、私にはトレセンがありました。同じチームのS君、違うクラブチームで現在はプロで頑張っているR君など、京都府トレセンには能力の高い、素晴らしい仲間がいました。

本題から少し脱線して、ここからは少し「トレセン」について書いていきます。

★それでもトレセンの活動があった

最近、Twitterのタイムラインで「利き足論争」と同じくらい見かける「トレセンの存在意義」問題。私個人は、育成年代の選手にとってトレセンは非常に意義のあるものだと考えています。

この「トレセンの存在意義問題」は、「一貫性の無い選考方法」「指導者の力不足」などが主な論点になっていますね。これは私も理解しています。

ただ、「トレセンに入ってしまえば」という考え方をすると、ある程度高いレベル(都道府県選抜以上くらい)のトレセンに入ることは、選手にとって大きな意味があります。

○主なメリット
・レベルの高い選手と一緒に練習(試合)できる
・レベルの高い相手と対戦ができる

・シンプルに友達(知り合い)が増える
・チームとは違う新鮮な気持ちでサッカーに取り組める
・次の進学先(高校や大学)などの情報を共有できる
・トレセンという肩書きで進路の幅が増える

トレセンに入ることのメリットをいくつか書きました。

指導者に関しては当たり外れがあるでしょうが、都道府県トレセン以上、ある程度のレベルになるとそこまで外れの指導者は少ないと思います。

私個人の話に戻ります。自チームの環境が最悪だったこともあり、京都府トレセンの活動が楽しくてしょうがなかった。R君など志が高い選手も多く、刺激を受けました。中2から中3にかけて進路を考え出す時期になります。トレセンのスタッフや仲間から、「ここの高校の雰囲気は良い」「ここは環境が良くない」「ここの監督は良い人だ」などの情報を得ることもできました。

そんな中学2年生の1年間が終わります。私は高校サッカーの冬の選手権に強い憧れを持っていたので、Jのユースチームではなく強豪高校への進学を目指します。

★右足靭帯断裂 ケガに悩んだ中3時代

ケガの話をする前に少しだけ。トレセンの話の続きをさせて下さい。実はケガの話につながります。

細かい時期は忘れましたが、中3に上がるタイミングで関西トレセンに入ることができました。関西トレセンといっても、ナショナルトレセンの選考会参加メンバーということで、肩書きだけ「関西トレセン」をもらった感じです。

この2泊か3泊の選考会、初日の一発目の試合でやってしまいました。右足首外側前距腓靱帯の断裂。本当に「プチッ」って言うんですよ。靭帯切れたら。ベンチにいた選手にも聞こえていたそうです。

靭帯

とまぁ、別に靭帯の箇所とかはどうでも良いんですが。(笑) 手術は回避しましたが、全治約3ヶ月。2週間ほどの松葉杖生活を強いられました。このケガ(右足首)に、高校でも大学でも悩まされます。一応覚えておいて下さい。(笑)

復帰したのはおそらく夏前でした。ケガ明けでしたが、この頃には行きたい高校も決めました。夏のセレクションで合格して、スポーツ推薦での入学が決定。今まで生まれ育った京都、そして親元から離れて寮生活になります。

ちなみに、クラブチームでは3年最後の大会の関西大会ベスト8が最高。あと1勝で全国大会でしたが、結局最後までチームとしては結果を残せませんでした。

実は中3の途中で、S君と一緒に他のクラブチームに移ることも考えましたが結局実行できず。そんなこんなの中学3年間でした。

また長々と書いてしまいました。すいません。

高校はさらに内容が濃かったため、もっと長くなります。前後編に分ける予定です。

またなるべく早く更新しますね。

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